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ロゼットの呪縛(1) [others]

 このブログを始めた頃すでにカランコエは栽培していたが、あくまで気軽な趣味以下のものでしかなかった。その頃は花ものが中心だったし、植物のことも(今以上に)よく分かっていなかった。当然カランコエの知識も乏しいものであった。それ故ブログ開始間もない頃の記事でこんなことを書いている。
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 これらの植物が木立状になると仕立て直してロゼットを維持するわけだが、それは植物本来の姿ではない。あくまで園芸上の美意識に基づいた処置である。それが良いとか悪いとかいうわけではなく、愛でる植物の姿はひとつに限らないという事である。野山にある植物は非常に美しいが、人の手を加えた庭や盆栽もまた違った美しさがある。個人の好みの問題であるから、正解はない。だから多肉が「暴れて」いても本来の姿に近ければ、そのままにしておいてもよいし、仕立てても良いと思う。個人的には置き場所の問題やら何やらで仕立て直しの必要を感じるし、仕立てた方が格好良いと感じるが、それを他人に無理強いしたくはない。
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私の別の趣味である動物側のスタンスから言うと、品種改「良」と称して育種やもっと人為的な遺伝子操作を施したものは容認し難いものがある。これが体色や模様に限定されたものであれば、さして反感も抱かない。自然界にも起こりうる変異を、少し手を加えることによって個体数を増やしているだけとも言えるからだ。だが、一部の魚類に見られる奇形的な変異を持て囃すような感覚は理解を超えたものがある。

 一方植物に目を転じると、剪定は勿論のこと交配や育種も当然のこととして行われている。本筋の趣味ではないからか、世間的な感覚に惑わされているからなのか、これには不思議と理解を促されるものがある。しかし余り度を越したものにはどうしても嫌悪感を抱いてしまう。植木を幾何学的な形に刈り込んだり、トピアリーを作ったりといった植物から自然を奪うようなものは気分の悪さを感じてしまう。
 多肉の世界に目を向けると、大人気のエケベリアはどうも見ていて気が重い。5~6年前はエケベリアもセンペルビウムのようなロゼット状の植物だと思っていたので、詰まった葉が地面に生えているのが良いものだと思っていた。だが自然界では徐々に灌木となり、先端の頂芽の部分がロゼットのように見える種もあることを知った。そうするとそのような種は成長するたびに足切りされ、その姿を良しとする不自然な栽培に疑念を持った。例えばトカゲの尾を切断して飼育するのが流行ったら鬱だ。それと同じことを感じるようになった。
 翻ってカランコエでは紅唐印やシンセパラのようなセミ・ロゼットの種があるが、これらは大概自然な感じで栽培されている。しかし月兎耳のような低木はやはり芽を摘み取られてしまう。福兎耳は元来匍匐性の植物なのに、さもそれが悪いように言い方をされている。もっと自然な姿を楽しめないものだろうか。日本人は西洋とは異なる感性で自然の姿に「美」を見出したのに、今は洗脳されているとしか思えない。

 では洗脳の根源はどこにあるのだろうか。次回考えてみたい。

灌木に育った月兎耳
IMG_9790.JPG

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