SSブログ

徒然なるままに [others]

 長い冬が緩んできて陽射しが少しずつ力を取り戻してくると、天気の良い日には家族や友人と街へ出かけてカフェやレストランで楽しいひとときを過ごし小さな幸福感に身を委ねる、こんな経験を持つ人は多いと思う。これは野生動物だったころのヒトの行動パターンの名残ではないかと最近考えるようになった。食と性は人間の文化の中心であり、他の動物においても行動の基準である。寒いときや雨の日は棲み家に潜み、晴れて気温が上がると食物や配偶者を求めて一斉に動き出す。ヒトもトカゲもアリも同じだ。身体の内なる欲求に従って行動するという意味でヒトと他の動物は差がない。
 近頃の日本人は結婚するのが困難になりつつあるが、個体群密度の薄い小さな昆虫や爬虫類などが絶望的な世界の広さという障害を乗り越えて、配偶者と巡り合うのはどの位の確立なのだろうか。種をつないでいく小動物たちに驚嘆と哀愁を感じると言ったら、それは地上に80億近い個体がひしめく我々大型哺乳類の奢りだろうか。
 動物に対しては以上のような感慨を覚えていたが、植物に対して同じような感情を抱いたことは今まではなかった。ただ伐採されてしまう木々の悲鳴だけが聞こえていた。

 しかしカランコエの生態を知ってくると(他の植物でも同様なのかもしれないが)、地に根付いて種が維持される奇跡と孤独な生き方に感じ入るのであった。リュウキュウベンケイソウの論文(2003)でOhbaは「(カランコエは)岩の割れ目やガレ場の斜面などで散発的に見られ、しばしば孤立した状態で見つかる。なので形質が異なって定着する」(意訳)と言っている。森や草原に立つ岩肌の窪みに芽吹いたカランコエがそこで育ち、また近くの、あるいは遠くの岩場に子孫を残せるのはどのくらいのチャンスがあるのだろうか。気の遠くなるような試みと挫折、失敗を経て命と種を維持していくことの過酷さを考えるとき、植物もまた人生を共にする仲間だと感じた。
 一粒の種にはどんな思いがあるのだろう。植物も生きていくために、我々動物では窺い知れることのない形で「意識」を持っているのだろうと思う。想像だに出来ない意志のようなものが働いて、数Km離れて点在する岩場に自生するカランコエには神秘すら覚える。

 これは何も超自然的なことを言っているのではなく、こんな儚げな命のつなぎ方をしていくには偶然以上の植物の戦略があって、それが何かは分かっていないということを言いたいのだ。先に引用したOhba(2003)の一文と孤立する自生地での姿を見て徒然と思うのであった。

岩上に一株根付いたKalanchoe orgyalis
IMG_2240.JPG

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。